千本釈迦堂(大報恩寺)
千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)について
正式名称:大報恩寺(だいほうおんじ)
御本尊:釈迦如来
宗旨:真言宗
山号:瑞応山(ずいおうざん)
由緒
鎌倉時代初期、1221年、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の孫、義空(ぎくう)上人が、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが起こりと言われています。
当初、倶舎(くしゃ)、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔伽藍も整い壮麗を極めましたが、応仁の乱をはじめ度々の争いで堂宇は消失し、現在は唯一本堂が残っています。
新西国三十三箇所の第十六番札所
京都十三仏霊場の第八番
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場の第二番札所
ぼけ封じ三十三観音の第二番札所
(「千本釈迦堂内の説明書」より参照)
千本釈迦堂の写真
(撮影日:2019年3月31日)
入り口付近では椿や桜が綺麗に咲いています。
本堂
1227年に建立された本堂は応仁・文明の乱をはじめ、幾多の戦禍を奇跡的に免れました。
京都市街地では現存最古の木造建築で、国宝に指定されています。
稲荷社
北野経王堂願成就寺
1391年、足利三代将軍義満の時、11か国の大領主陸奥大守山名氏清(やまなうじきよ)が将軍家に叛いて挙兵した明徳の乱において、逆に義満により内野の原にて討滅されてしまいました。
1392年、将軍義満に叛いたとは言え氏清とその一族のかつての功労武勲を重んじ、戦いに倒れた敵、味方の兵士たちの追福のため、1100人の僧侶を集めて供養しました。
1401年、北野社の社頭に東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、北野経王堂願成就寺と名付けました。
不動明王堂
おかめ塚
千本釈迦堂の本堂の建立にあたり、棟梁の長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)が大切な柱を誤って短く切り落としてしまいました。
高次の妻の阿亀が「いっそ斗棋をほどこせば」という一言で、見事な大堂の骨組みが出来上がりました。
しかし、阿亀は女の提言で棟梁としての大任を果たし得たということが世間にもれてはいけないと思い「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意し、上棟式を待たず自害してしまいました。
高次は上棟の日に亡き妻の面を御幣につけて飾り冥福と大堂の無事完成を祈ったと言われています。
観音菩薩像
本堂前の阿亀桜(おかめざくら)です。
千本釈迦堂の御朱印
千本釈迦堂の所在地